全て仏教

観音様の前世

観世音菩薩往生浄土本縁経より

昔々、インドに摩涅婆咤という国があり、長那と言う大富豪がいた。妻の名は、摩那斯羅(まなしら)と言い、子が出来ずに夫婦はいつも嘆いていた。

天神に祈りひたすら子を求めると、まもなく妻は懐妊して月満ちて男の子を産んだ。この子は端正たぐいなく、三歳になると、摩那斯羅は二人目の子を産んだ。

夫婦は喜び占い師に二人の子を見せた。占い師は『この子たちはとても端正だが、久しからずして、父母と離れ離れになる』と言い、兄を早離(そうり)、弟を速離(そくり)と名づけた。

しかし、夫婦は占い師の言葉に耳をかさず、二人の子をこよなく愛した。

早離が七歳、速離が五歳の時、母が重病にかかり床に伏した。母は二人の子の頭をなでて「立派に生きなさい。菩提心を発しなさい。菩提心とは大慈のことです」と言い、夫を呼んで「この二人の子をお願いします」と告げて目を閉じた。

父と二人の生活が始まると、早離は父の右ひざにかけて母を恋慕し、速離は左ひざにかけて食べ物を求めて悲しんだ。

長那は、心の貞良比羅と言う名の娘を後妻に迎えた。その頃、世は飢饉に見舞われ、長那の家も生活は苦しくなった。

長那は後妻に「ここから七日間ほど北へ行くと檀那羅山(だんならさん)があり、鎮頭(ちんず)という甘い木の実がある。お前と二人の子を養うために、これからそれを採りに向かう。お前は私が帰ってくるまで、二人の子を養育しなさい」と言った。

夫は、二週間経っても戻って来なかった。後妻は異念を生じて、船頭を呼んで、子ら二人と共に船に乗り、南方の絶海の孤島に着いた。

後妻は船で食事を作ると言って、二人の子を島におろした。二人の子は喜んで遊びに霧中になっていた。後妻はひそかに、船でそのまま家に帰ってしまった。

早離と速離は岸辺に戻ってきて、船を探したが船はなく、継母の居場所も分からなかった。二人の子は継母を探して走り疲れた。声をあげて継母を呼んだが応答はなかった。二人の子は昼も夜も悲しんでな哭いた。

兄の早離は言った。「母、摩那斯羅はもういない。父、長那も檀那羅山から帰って来ない。継母は私と弟をこの島に置いて、密かに帰ってしまった。どのようにして身命をながらえよう」

早離はその時、母・摩那斯羅の遺言を憶い浮かべると「私は無上の菩提心を発し、菩提の大悲を成就して解脱門を行じ、まず他の人々を済度し、その後に仏となろう。もし父や母がいない人にはその父や母の姿をあらわ現し、もし先生がいない人には、その先生の姿を現し、もし貧しい人にはふうき富貴な人を現し、国王や大臣、長者や居士、役人やバラモンなど一切、その姿を欲する者のために現さないことはない。願わくは、私は常にこの孤島に在って、あらゆる国土に十分に安楽を施そう。 山河や大地、草木や五穀、甘い木の実などを現し出して人々に施して、人々を早く生死を繰り返す現世から抜けださせよう。願わくは、私は悲母摩那斯羅に随い、慈父長那のもとを離れまい」と言って、 百願を発し息を引き取った。

父、長那が鎮頭の木の実を採って、檀那羅山から家に帰ってきた。まず二人の子について、後妻に聞いた。

後妻は「あなたの子は今、飲み物や食べ物を求めに外に出ています」と言った。

長那には友人がおり、そこへ行って二人の子の所在を訊ねた。友人は「君が出かけて二週間が過ぎた頃、後妻が二人の子を船に乗せ、南海にある絶海の孤島に置き去りにした。きっと餓死したに違いない」と言った。

その時、長那は「ああ」と言って、はなはだしく自分を責め、「私が檀那羅山で甘い木の実を採ってきたのは、二人の子を養うためである。何の罪があって、二度の別離の悲しみにあ遭うのだ。先には忍びがたい別れに遭い、今また、生き別れにあ遭う。もはやた堪えられん」と言った。

長那はすぐに小船を求め、絶海の孤島の浜辺に到り、四方に走って、二人の子の姿を探し求めると、ただひとむらの白骨だけが砂の上にあり、衣服は浜辺に散乱していた。長那は、これがわが子二人の白骨だと知り、衣服と白骨を抱きしめて慟哭した。

長那は発願して「願わくは、私は諸悪の人々を済度し、その悪から解脱させ、速やかに仏道をな成しと遂げたい。私は大地あるいは水や火や風、あるいは草木や林を現しだ出して、人々のよりどころとなろう。また、五穀を現し出して人々を豊にし、あるいは天神や人間やその他の神となって、姿を現さない国土はない」、こう言って、五百願を発した。

長那はまた「ねが願わくは、わたしは常に現世にとどまり、説法して教化したい」と言い、やがて命終した。

すると大地はおおいに震動し、もろもろの天神がきて、禽獣は悲しい声で鳴き、空中からは天華が降って、長那と早離と速離の骨を供養した。

その時の長那は、今の釈迦牟尼仏であり、母・摩那斯羅は西方の阿弥陀仏である。早離は私、すなわち観世音菩薩、速離は勢至菩薩、長那の友達とは総持自在菩薩である。

むかしの檀那羅山とは今の鷲峰山(しゅぶせん)、絶海の孤島とは、今の補陀落山(ふだらくさん)である。 また、補陀落山の北側に洞窟があり、宝業と称する金剛石のような大石がある。

わたしは遙かむかし、いつも、その大石の上で、大悲行のげ解脱門を説いて生きとし生けるものを済度した。 山頂には荘厳な七宝の殿堂があり、わたしは常にその宮殿で教えを説き、利益と歓喜を一切生きとし生けるものに与えた。

わたしは、それによって西方の極楽浄土に往生して、菩薩の最高位を得ることが出来た。はじめに釈迦牟尼仏の前に大光明を現して、その大光明の中に偈をと説いたのも、その由縁からである。

すばらしいすばらしい。あなたが西方の極楽浄土に往生した因縁のひとつひとつは、まこと誠にあなたが述べたとおりである。今日、王舎鷲峰山の頂に参集した聴衆よ、このよさに知るがよい。

例えば幼子が井戸に落ちれば、その父が井戸に入ってその子を救い出し、母が井戸辺にいてその子を抱きしめよう。わたしはその父のように、五濁の人々が井戸に落ちたのを救い、阿弥陀仏はその母のように井戸辺で人々を抱きしめる。

極楽浄土の観世音菩薩とは、井戸から救い出された幼子であり、その時、極楽浄土に生まれたのである。阿弥陀仏は、極楽浄土に生まれたいと願う人々を、その手を差し伸べて引き上げ、摂め取って捨てることはない。

観世音菩薩と勢至菩薩が阿弥陀仏の側に護られているのも、みな、母としての阿弥陀仏の救ってやまないおも想いからである。

その時、阿弥陀仏は、無数の百千の聖衆と共に空中に現われ、偈を説いて言われた。「すばらしきかな釈迦牟尼仏よ、五濁に在りて人々を利益し、その名を聞き姿を見る者をして、必ず仏道を成ぜしむるは、かって誓願による。 今、わたしが空中に来現せしはわが極楽国に生まれんと欲する者を必ずきたって西方浄土に迎えるためなり」

その時、釈迦牟尼仏は阿弥陀仏を讃えて、偈を説いて言われた。「すばらしきかな両足尊よ。よく娑婆界を利益したり。これ真実なり。慈悲を一切に施し、もし業の障りありて西方浄土に生まるる因なくとも、弥陀の本願力に乗ずれば必ず極楽国に生まれん。もし人が多くの罪を造り、まさに地獄中に堕つるとも、わずかにも弥陀の名を聞かば猛火は清涼とならん。もし弥陀仏を念ずれば、たちまち無量の罪は滅し、現世には無比の楽を受けて後世には必ず浄土に生まれん」。

その時、観世音菩薩は座からた起って偈を説いて言った。「二尊は日の出ずるがごとく、よく生死の闇を破し  往生の因縁を顕示すること、時を経るとも永劫なり。われ無量の時を念ずるに、絶海の孤島に在りて発心せし時の誓願は常に補陀落山に住するにあり。むかし生死に在る時は二尊は父母たり、今は浄土と穢土に在りて互いに世間を救い教化せり」

その時、鷲峰山の聴衆は未曾有の出来事を見聞して歓喜し、釈迦牟尼仏に礼拝して、おのおの帰途についた。

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